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ヴェーバー「プロテスタンティズムの倫理」論文の全論証構造

折原

『未来』20043月号掲載稿32-39

 

 

はじめに

橋本努が本誌一月号に「ウェーバーは罪を犯したのか」と題する論考を発表している。橋本は、『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の〈精神〉』(梶山力訳・安藤英治編、第二刷、1998年、未来社、以下「倫理」論文)をめぐる羽入辰郎『マックス・ヴェーバーの犯罪――「倫理」論文における資料操作の詐術と「知的誠実性」の崩壊』(2002年、ミネルヴァ書房、以下羽入書)と折原浩『ヴェーバー学のすすめ』(2003年、未来社、以下拙著)との「論争の第一ラウンド」について、論点を整理し、「羽入−折原論争」の第二ラウンドに向けて「土俵」をととのえている。筆者としては、橋本がむしろ論争の当事者主体となり、この「論争」についても「レフェリーないし行司」として責任ある判定をくだすように期待するけれども、今回はその「土俵」に乗り、「第二ラウンド」にそなえたいと思う。

「第一ラウンド」における羽入のヴェーバー論難は、もっぱら「倫理」論文第一章第二節「資本主義の『精神』」劈頭のフランクリン文献引用と、同第三節「ルターの職業観」冒頭の、ルターの聖句翻訳にかんする注記とに限定されていた。筆者も、羽入の論難に内在して反論を展開したので、その範囲も対象に即しておのずと狭まり、羽入が抽象的には語る「『倫理』論文の論証構造」については、筆者の理解/見解を全面的また具体的に展開することはできなかった。そこで、本稿ではこの欠を埋め、「『倫理』論文の全論証構造」にかんする管見を積極的に提示してみたい。というのも、「ヴェーバーは詐欺師である」との全称判断の当否が双方の「知的誠実性」を賭けて問われているこの論争を、橋本も要請するとおり実りあるものとするには、議論をせめて「倫理」論文の全体に拡大し、そのなかで羽入が論難する箇所の位置価資料選択の当否とを見定める必要があろう。また、そのようにして議論の対象と準拠枠を拡大すれば、広く第三者とりわけヴェーバー研究者から、見解表明を期待できると思われるからである。

 

一、「世俗内救済追求」への軌道転轍――ルター宗教改革の意義とその限界

ここでは、「全論証構造」について「倫理」論文の冒頭から解説を始めるのではなく、羽入の解釈とはもっとも顕著に異なると思われる論点から入りたい。そのうえで、著者ヴェーバーによる論旨の展開を八項目に集約し、最後に第一章第一節「宗派と社会層」に戻って、全篇を概観し、骨子を述べ、(もとより要約ながら)ヴェーバー的探究の全円環を再構成してみたい。

とすると、当の「もっとも顕著な相違」は、ルターによる宗教改革の意義(「文化意義」)を、フランクリン父子への「影響」も含めて、どう把握するか、という一点にあろう。羽入はそれを、旧約外典『ベン・シラの知恵』(以下『ベン・シラ』)におけるBerufの創始とその直接波及効果に求めているように見受けられる。ところが、「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」の全文を成心なく通読すれば、

㈠当の「文化意義」は、(もとより言語改革を重要な一環としては含む)ルターの宗教改革事業総体が、宗教思想上の根拠から「命令praecepta」と「福音的勧告consilia evangelica」とのカトリック的区別を破棄し、(前者のみを遵守する)「在俗平信徒」と(後者にもしたがう)「修道士 (世俗的救済追求者)」との(「大衆」と「達人」との)宗教身分二重構造を破砕した一点――しかも、まさしくこの消極的な一点――に求められている。ただその結果、(当の区別を前提とする中世的「世界像」のもとでは修道院行きの「軌道」に乗ってしまった)達人――というよりもむしろ、内面的に厳粛で「より高きを望んで精進する」ような「観念的利害関心」をそなえた、やがては達人たるべき「能動分子」――が、ルターによるこの軌道転轍以後は「世俗」にとどまり、その宗教的/実践的活力を世俗の「生活上の地位」「身分」「職業」にあって発揮する「世俗救済追求innerweltliche Heilssuche(禁欲Askeseとはいわず)」の道が開かれた。逆にいえば、宗教が信奉者を内面から駆動する精神的/心理的エネルギーが、世俗の修道院に(「世俗」の観点からみて)逃避/消散/蒸発してしまわなくなった。ところが、

㈡当のルターでは、このそれ自体としては画期的な「軌道転轍」が、他面伝統主義」への思想変化と手を携えて進んでいた。この経緯の、訳語選択への表現として、全体として伝統主義的な旧約外典『ベン・シラ』の、そのまた伝統主義的な一一章二〇節後半の「労働しつつ老年を迎えよ」の「労働ergon」と、同じく二一節中の「主を信頼して自己の職務に徹せよ」の「職務ponos」とに、聖句としては初めて、それまではもっぱら「宗教的使命」、「職への招聘」に当てられていた語beruffが適用され、「神与の使命」と「純世俗的職業」との両義を併せ持つ語Berufが創始されたのである。それは、一五三三年のことで、一五二四/二五年の「農民叛乱」以降とみに伝統主義に傾き、伝統的秩序内職業への各人の個別的編入を即「神の摂理」と見るにいたった翻訳者ルターの当の伝統主義的精神の外化・表現としてであった。

ヴェーバーが、キリスト教聖典のうちでは相対的に――新約正典、旧約正典、新約外典に比して――尊重され、宗派ごとに扱いのまちまちな旧約外典『ベン・シラ』の当該句を、「倫理」論文の第一章「問題提起」第三節「ルターの職業観」で真っ先に持ち出したのは、なにも『ベン・シラ』をもろもろの聖典のうちでもっとも重要と見、当該句をBeruf思想波及の原点他言語版諸聖典との結節点と見なしたからではなかろう。また、たとえば(ヴェーバーの問題関心・価値関係的遠近法においてはもっとも重要な)カルヴィニズムは「旧約外典は聖典」と軽んじていたから、『ベン・シラ』の当該句を、そうした宗派も含め、広くプロテスタンティズム諸派についてBeruf思想の空間的/時間的波及度――しかも、諸聖典における訳語選択への表出度というその面――を測定する定点観測点に見立てることもできまい。むしろヴェーバーは、旧約外典『ベン・シラ』は、内容上/方法上そうするにはもっとも適当と(キリスト教文化圏の読者にはとくに断るまでもなく)認めたうえで、かえって当該箇所が伝統主義との結合という特殊ルター的/ルター派的な制約を端的に示しているがゆえに、「ルターの職業観」の特性と限界を叙述する節の冒頭を飾るのに(かぎって)は相応しい、と判断したのであろう。このばあい「限界」といってももとより、宗教的本質的意義の限界ではない。「世俗的」であっても伝統主義ではなく、「合理的禁欲、それも教理ではなく歴史的形成をこそ、「関心の焦点」に据え、全篇の主題として「解明」「説明」しようとする「倫理」論文にとっては――この問題設定そのものにむすびついた特定の価値関係的パースペクティーフ(遠近法)」からみて、そのかぎりで――、ルター/ルター派には、まさに伝統主義への推転(主題としての「合理的禁欲からみれば逸脱」「迷走」「頓挫」)の点で、歴史的文化意義限界が認められる、という意味である。さて、

 

二、「世俗内軌道」上における「合理的禁欲」の起点――禁欲的プロテスタンティズム

㈢ルターによって敷設された「世俗的救済追求」の「軌道」のうえで、当のルターには欠けていた合理的禁欲への宗教的動因をつけ加えた――「伝統主義」から「合理的禁欲」への「さらなる軌道転轍」をなしとげた――諸宗派が、「プロテスタンティズム」のうちでも、ルター派ではなく、「禁欲的プロテスタンティズム」――カルヴァン派、敬虔派、メソディスト派、および(教理上の基礎は異なるが)「再洗礼派」系の諸ゼクテ――である。したがって、「倫理」論文の本論(第二章)は、「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」と題され、第一節「世俗内禁欲の宗教的基盤」では、もっとも首尾一貫した代表例としてのカルヴィニズムから始めて、当の宗教的動因が「倫理」論文全体の主題として分析される。すなわち、「二重予定説」のような教理上の与件から、いかにして「合理的禁欲」への「実践的起動力」が生まれてくるのか――その経緯(担い手個々人の内面的/主観的な「意味/(因果)連関」)が、後に「理解社会学」と命名される方法を駆使して、「明証的」に「解明」され、「理解」される。

たとえば「ウェストミンスター信仰告白」(一六四七年)に表明されている「隠れたる神」の「二重予定」を心底から信じた、カルヴァン派「大衆宗教性」の「信徒」を採って「理念型」を構成してみると、かれは、「この自分は、はたして『永遠の生』に選ばれているのか、それとも『永遠の死』に予定されているのか」との不安から逃れ、「救い(=選び)の確信」に到達して「息をつく」には、「(いかに洗練されたサクラメントであれ)呪術(=神強制)による救済」の退路は断たれているので、ただひたすら――伝統に逆らっても――「神の栄光」をこの世に広める「神の道具」に相応しく「行為」するよりほかはなかった。そして、一度でも「捨てられている徴」があらわとなって絶望の淵に突き落とされないためには、一瞬たりともゆるがせにせず、行為のひとこまひとこまを「選ばれた聖徒に相応しいか否か」の自己審査に委ね、そうした醒めた熟慮によって「生活営為Lebensführung(生き方、ライフ・スタイル)」全体を、計画的体系的に制御形成していき、よってもって(「自然の地位」に対置される)「恩恵の地位」を生涯にわたって堅持しようとしたのである。ところで、

㈣こうした宗教的動機づけによる「自己審査と熟慮による生活営為全体の制御/形成」すなわち「合理的禁欲」が、(ルターによって敷設され、カルヴァン/カルヴィニズムに継承された)世俗軌道のうえで、たとえば(当の世俗生活の領域としての)経済生活に持ち込まれると、初発には意図されなくとも、相応の「実践的起動力」/効力を発揮せざるをえまい。所与の経済的諸条件のもとにあって、右の意味で禁欲的合理的な「職業」労働による収益の増大、資本家機能への転身/転職、および絶えざる伝統的革新による資本蓄積といった経済的地位の向上に、伝統主義下に比してはるかに有利に作用せずにはいなかったろう。

さらに、そうした発展につれて、⑴機会さえあれば、伝統に逆らっても新しい資本家的「職業」に転出することや、⑵私的消費支出を極力抑えて利潤を追加投資にまわし、事業を拡大していっそうの利潤を取得することや、⑶かつての「産業的中産者(中産的生産者)」仲間を競争場裡で蹴落とし、いまや賃労働者として雇い入れ、呵責なく搾取して貧富の懸隔を拡大していくことや、⑷(それ自体としては歓びに乏しい)労働/労働搾取に耐えて勤労意欲を失わないことなどが、「(被造物としての人間の理解を絶した、二重予定の)神の摂理祝福」として宗教的に正当化されれば――宗教が教理としての自己同一性は保ったまま、「意義変化Bedeutungswandel」(ヴェーバー)「機能変換Funktionswechsel」(ルカーチ、マンハイム)をとげれば――、当の発展にはいよいよもって拍車がかけられることになろう。「倫理」論文第二章第二節「禁欲と資本主義精神」(の前半)では、こうした「宗教的禁欲の世俗的効力発現」の諸相が、鮮やかに分析されている。ところが、

 

三、「合理的禁欲」における宗教色の後退と「合理的ライフ・スタイル」の構造的再生産㈤そのようにして富が増えると、まずは平信徒個々人が、「原罪」(マルクス)ないし「富の世俗化作用」(ヴェーバー)に捕らえられる。すなわち、富が増えるとどうしても、獲得された富のうえに安住するようになり、高慢/激情/現世への愛着もつのらざるをえない。こうして、宗教的動機づけが世俗内で効力を発揮し、勤労と節約を媒介に(当初は「意図せざる随伴結果」として)富を産み出せば産み出すほど、まさにそれだけ宗教の根は涸れ、みずからの墓穴を掘る。

しかも、この「原罪」の作用は、当事者の認識/警告/抵抗の有無にかかわりなく、いやおうなく貫徹される。そして、「倫理」論文第二章第二節「禁欲と資本主義精神」(の後半への旋回点)における叙述の主眼は、この作用にもとづく逆説的関係の存立自体にあり、たとえばメソディスト派のウェズリーによる当該関係の認識/警告といった事実も、ただ当の作用の帯びる抗いがたい性質を引き立たせるために、後に副次的に書き添えられているにすぎない。むしろ、

㈥いっそう重要なのは、初発には宗教的に動機づけられた「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」が市場における競争に打ち勝って「淘汰」に耐え抜くさまを、周囲の市場利害関係者が目撃し、「競争場裡で有利なモデル」と認定すると、当のライフ・スタイルがそのかぎりで、当該宗派の平信徒以外にも、宗教色抜きの経済的致富動機からも、まずは模倣され、やがて目的合理的に採用されて、普及していく、という事態である。このように、宗派のライヴァルが競争場裡に登場してくると、当該宗派の平信徒も、「原罪」の作用で宗教的動機は薄れるにせよ、なお――ここでは、姉妹論文「プロテスタンティズムのゼクテと資本主義の精神」で主題化される「ゼクテ仲間の監視下における自己主張」という契機は省くとして――市場における自己維持のためにも、「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」の少なくとも外形は保持せざるをえない。こうして、(初発には宗教に媒介されて産み落とされた)「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」が、こんどは「淘汰のメカニズム」によって再生産される。と同時に、担い手個人についても、市場利害関係者・経済行為者総体についても、当の「禁欲的・合理的ライフ・スタイル」の宗教的禁欲色は、この発展につれて徐々に後退し、やがては宗教的超越的契機を欠く「合理的ライフ・スタイル」すなわち「功利主義」に取って代わられることになろう。

 

四、「合理的ライフ・スタイル」における宗教的禁欲の残照――職業的営利エートスとしての「近代(資本主義)の精神」

㈦ちょうどその過渡期にあって「功利主義」への「転移」(キルケゴール)傾向をともないながら、なお宗教、それももっぱら禁欲的プロテスタンティズム」の残照をとどめ、世俗内の「職業」的営為を――したがって「職業」としての経済的営利追求をも――「職業義務」として倫理的にサンクション」し、拍車をかけているのが、第一章第二節で取り上げられ、右記のような「意味連関」「解明」の出発点とされていた「資本主義の精神」である。管見では、この「精神」は、「近代資本主義」を資本主義一般から区別し、近代経済のみでなく近代科学/近代政治/近代芸術など、近代的文化諸形象にかかわる近代人の人間活動一般を、ことごとく「職業」として自己目的化/専業化し、それぞれの生産性をそのかぎりで未曾有に高めた「実践的起動力」として、むしろ「近代の精神ないしエートス」と呼ぶほうが適切であろう。それはともかく、

㈧第一章「問題提起」第二節「資本主義の精神」では、近代的中産市民層/労働者層/資本家層の「合理的ライフ・スタイル」になお(ここには多く、かしこには少なく)残留する「集合態Kollektivum」的エートス――「合理的ライフ・スタイル」を構成する諸契機のうちで、「功利主義からみれば非合理的禁欲的契機――が取り出され、鋭い一義的(理念型)概念に構成されて、禁欲的プロテスタンティズムへの「意味/(因果)溯行の出発点に据えられる。そのため、(第一章第二節冒頭で当初の暫定的例示手段としてそのかぎりで一八世紀の人ベンジャミン・フランクリンの(無限に多様な経験的)衝動/感情/思想のカオスのなかから、合目的的に選択される素材が、実業家を志す青年への助言や『自伝』といった文書(の特定の語と語群)に外化/表明されている「意味形象」(「生き方」の範例)である。

著者ヴェーバーの「価値関係的パースペクティーフ(遠近法)」から見て「知るに価する」その「本質」は、「時は金なり」「信用は金なり」の二標語に象徴されるとおり、個人の生活時間と対他者関係とを一途に捧げて貨幣増殖に励め、との倫理的説教にある。なるほどそこでは、「勤勉」「節約」「正直」などの徳目が、「固有価値」として措定され「定言的命令」として「要請」されるのではなく、「貨幣増殖−信用獲得−(そのための)諸徳目」という手段系列に編入されているため、いつしか信用獲得という効果に力点が移動し、徳目遵守が相対化され、効果が等しければ「外見だけで十分」として内実は不問に付し、ばあいによっては(外見で人を欺いて同等以上の効果を期する)「偽善」に傾く趨勢(「客観的可能性」)を免れがたい。しかし、少なくともフランクリン自身は、外見と同時に内実をも重視し、「一三徳」を「習慣」(エートスēthos の原義)として身につけようと、「自己審査」手帳をつくって「自己制御」に努めていた。このようにフランクリンは、世俗生活者の「能動分子」として確かにルターが敷いた軌道のうえにはいたが、さりとて世俗内伝統主義者ではなかった。したがって、かれのこうした自己審査自己制御の精神的系譜をどんなに遡ってみても、カルヴィニズムには行き着くにせよ、ルターにたどりつくわけがない。

問題は、フランクリンという一人物の生きざま」そのものではなく、かれが少なくとも一面では体現していたエートス――「近代(資本主義)の精神」――の歴史的文化意義」にある。この点は、フランクリンと同じく貨幣増殖に一生を捧げ、一人物としてはひとしく公徳心の持ち主であったヤーコプ・フッガー(という前期的大商人の類例と比較してみると、鮮やかに浮き彫りにされる。すなわち、フッガーは、カトリックの教えにしたがって営利追求を「反倫理的」ないし「倫理外/非倫理的」と感得していたから、まさに貨幣増殖/資本蓄積の実を挙げれば挙げるほど、それだけ「良心の呵責/死後の懲罰への不安」にさいなまれ、私財をたとえば救貧集合住宅(「フッゲライ」)の建設に投じ、経済的慈善事業に「精神的保険料」を支払い、倫理的罪責感の埋め合わせをはからなければならなかった。それにたいしてフランクリンは、「近代(資本主義)の精神」によって、ほかならぬ職業としての貨幣増殖/資本蓄積をこそ「最高善」とも感得できたから、それに「最高の良心」をもって「なんの(宗教的ないし倫理的な)罪責感も憂いもなく」、明朗闊達に没頭することができた。経済的営利追求に内面から重くのしかかっていた宗教倫理的制約が取り払われたばかりでなく、なんと営利追求自体に最高のプレミアムがかけられた。かつては互いに正反対を向いて妨げ合っていた宗教倫理と経済的営利追求とが、ここでぴたりと一致し、後者に前者の拍車がかけられたのである。

 

五、総括――探究の全円環とヴェーバー固有の貢献

㈨ここで翻って「倫理」論文第一章第一節「宗派と社会層」に戻ると、冒頭では、近代市民的社会層(資本家、経営者、および近代的経営には欠かせない生産技術/経理などを担当する労働者)への帰属と、宗派所属との関係が問われ、前者におけるプロテスタントの(カトリックに比しての)相対的優位が確認されている。そのうえで、この相関事実を「説明」しようとする四つの先行仮説が、つぎつぎに反証を挙げて棄却され、「どう考えても特定宗派の古プロテスタンティズムとくにカルヴィニズムの信仰内容そのもの(経済的諸条件における歴史的/伝統的優位、元来の「世俗的性格」、「少数派」としての「過補償」動機、ないし営利と宗教との「反動」形成関係ではなく)が、平信徒の「弛緩分子」ではなく「能動分子」をこそ駆動して、経済活動熱をたかめ、近代的社会層帰属を促進している」との因果命題が定立される。

ところで、この因果関係そのものは、じつはペティら同時代の炯眼な観察者にも、(マルクスや)ドイツ歴史学派たとえばゴータインにも、認識されていた。そこでそれは、いちおう所与の前提とみなし、むしろ「では、なぜそうなるのか、信仰内容のいかなる要素が、どのように作用して、そうした帰結をもたらすのか」というふうに問題を設定しなおし、当の因果関係を「意味連関として解明」する(これは前人未到の)領域に踏み込む。すなわち、「古プロテスタンティズム」と「近代的社会層帰属」という両端の間に、多項目からなる「意味連関」を想定し、まずは最後尾の(人々の経済的活動熱をたかめ、近代的社会層帰属にいたらしめる)を(語形溯行ではなく)「意味溯行」の出発点に据える。そして、これについては方法上いったん宗教色を払拭して「資本主義の精神」と定義し、その核心になお認められる「非合理」的契機・エートス性から、背後の宗教性を予想し、(「近代(資本主義)の精神」一般の「文化意義」を「伝統主義」と対比して確定したあと)当の宗教性の具体的探索に移る。そこではなるほど、まずは(「プロテスタント」のひとりとしての)ルターを「射程には入れる」けれども、かれは前述のとおり「世俗的救済追求」への「軌道転轍」をなしとげ、Berufは創始したものの、その職業倫理は「伝統主義」に逸れて「合理的禁欲」への萌芽は認められないばかりか、むしろたとえば「わざ誇りWerkheiligkeit 」の原則的拒否において「合理的禁欲」には「逆行」している(だからルターは、「わざ誇り」を触発しやすい『箴言』二二章二九節の「わざmelā'khā, ergon」には、当の原語そのものはBerufを当てやすい語であったにもかかわらず、まさに「翻訳者の精神において」最後までBerufの適用を拒み通した)。まさにそれゆえ、ルター論は「問題提起」章の一節内で簡潔に切り上げ、むしろかれによって敷設された世俗内軌道上に、なお欠けている環を求めて「禁欲的プロテスタンティズムの職業倫理」に視線を止め、照準を合わせる。そして、これをこそ「関心の焦点」/本論(第二章)の主題とし、そこからは歴史を下る方向に転じて、右記㈢〜㈧の「意味連関」につき、多項目のひとつひとつを丹念に「解明」しながら、㈧で出発点の「資本主義の精神」に戻ってきた。こうして、全探究の円環が閉じられ、叙述が意味上完結したのである。

そういうわけで、この「倫理」論文全体特有の学問的貢献は、「『プロテスタンティズム』しかも『ピューリタニズム』が資本制生産様式に『照応』する、あるいは『商業精神』『資本主義精神』を『喚起』し、資本主義経済の発展を『促進』する」との、ペティ、マルクスおよびドイツ歴史学派には既知の因果関係そのものではなく、むしろ「なぜそうなるのか」を、当事者の「内面」「精神生活に分け入り、要旨右記のとおりの「意味連関として解明」したところに求められよう。ここに、(ゾンバルトの「ユダヤ的精神普遍化説」をいちおうおくとすれば)マックス・ヴェーバーに固有前人未到の功績があった。少なくともヴェーバー自身は、一九一〇年の「反批判」「反批判結語」論文で、自分の業績をそのように限定している(マルクスとの関係については、拙著、一四一〜六ぺージ、ドイツ歴史学派との関係については、牧野雅彦の近著『歴史主義の再建――ウェーバーにおける歴史と社会科学』、二〇〇三年、日本評論社、参照)。また、なぜヴェーバーのみ――といちおういっておく――が、そうした領域を開拓し、内容ばかりか方法上も新しい独自の業績を達成できたのか、については、神経疾患による職業人化とそれにともなう苦悩という(余人には欠けているか、乏しかった)生活史的/実存的契機(拙著、第一章一、二節、一〇〜一九ぺージ)の意義が重視されるわけである。

 

六、「定説」と学問的批判の要件

さて、以上が「『倫理』論文の全論証構造」ないしは著者ヴェーバーの「価値関係的パースペクティーフ(遠近法)における論点構成の全体」である。これはなにも、筆者独自の見解というわけではない。むしろ、専門的なヴェーバー研究における諸先輩(とりわけ梶山力、大塚久雄、安藤英治)の永年にわたる根気よい「倫理」論文解読と、「倫理」前後の諸労作にかんする先達のこれまた根気のよい研究の蓄積から紡ぎ出された「定説」であり、筆者による内容上の補足は、㈥点ほかごくわずかしかない。ただ筆者は、諸論点の全体を、筆者が著者ヴェーバー自身の「価値関係的パースペクティーフ」と確信する視座から、かれの方法論にも準拠して再構成し、多少メリハリをつけて叙述したにすぎない。

むしろ、「倫理」論文そのものについては素人の一般読者も筆者も、当該論文を成心なく通読しさえすれば、容易に読み取れ、テクストの価値関係的論理的構成そのものに照らして首肯される「論旨」「全論証構造」であるといってもよいであろう。筆者は、右の九項目を書きとめながら、あまりにもあたりまえの「常識」を縷々解説しすぎてはいないか、との不安に再三襲われた。ただ、この「常識」さえしっかり身についていれば、羽入書に動ずることなどありえないはずなのだ。

もとより、常識や定説を疑い、批判することは、大切なことである。懐疑と批判がなければ、学問の進歩はない。ヴェーバーが、「たとえ法の妥当性一般を否認する無政府主義者であっても、論証を重んずる研究者であれば、法学部に受け入れるべきだ」との持論を表明するさいに述べたとおり、「もっともラディカルな懐疑が、認識の父」なのである。

とはいえ、学問上の批判は、みずから「定説」の水準に達し、その内容を十分に知ったうえで、それを否認するならするで、理にかなう根拠を提示するばかりか、その根拠から積極的に「定説」を乗り越える、実のある新説」を提示するをそなえていなければならない。右のヴェーバーの言にも、「論証を重んずる研究者であれば」という留保条件がつけられている。人あって、否認されるべき「定説」を知らず、誤読/誤解にもとづく些事拘泥と針小棒大な架空の議論で難くせをつけ、罵詈雑言を浴びせ、もっぱら打倒/破壊をこととして自画自賛/自己陶酔に耽りつづけるようであれば、研究者としては論外であろう。

羽入辰郎が、ヴェーバーの「知的誠実性」を問うた論争の「第二ラウンド」に、みずからの「知的誠実性」を賭けて登場することを期待する。(二〇〇四年一月一五日)